みんなのSKF/OMF

みんなのSKF/OMF
エピソードのご応募ありがとうございました

セイジ・オザワ 松本フェスティバル(OMF)は、2021年に開催30年目を迎えます。1992年にサイトウ・キネン・フェスティバル松本(SKF)という名前で始まってからというもの、多くの公演・オープンイベントなどに、延べ200万人以上のお客様にご来場頂きました。お客様のみならず、松本市民の皆様、そしてたくさんのボランティアスタッフの方々に毎年支えて頂いている感謝をこめ、「みんなのSKF/OMF」と題し、皆様からお寄せ頂いた思い出をご紹介いたします。 お一人、お一人それぞれのフェスティバルの思い出を、ぜひご一読ください。

エピソード一覧

「栗まん」と「サイトウ・キネン・オーケストラ」

カワセミ寅次郎

私が、サイトウ・キネンの名前を知ったのは、90年代半ば、30歳にしてオーケストラ・コンサートに目覚め、5年程たった頃、偶然つけたTVで特集番組を目にしたのです。  
松本に初めて訪れたのは、サイトウ・キネンの存在を知った頃のGW。旅行会社の「上高地一泊二日バスの旅」に参加した時。一日目は、バスがひたすら高速道路を走り、夕方、松本に。上高地を訪れ、数時間、滞在し、またまたバスは、ひたすら走り、帰って来る、という強硬日程の旅。「折角、初めて松本に来たのだから・・」と、夕暮れ、駅前の宿から歩いてお城をながめに行きました。その時、偶然入った和菓子屋でお土産に買ったのが「栗まん」。中に入る、まるごと一個の栗の大きさに、びっくりしたものです。

初めてチケットが獲れたのが99年。内田光子さんが、ベートーヴェン3番を弾かれた時。会場を訪れ、華やかなホールでの、とても暖かいスタッフの皆さんの対応に、心、なごんだものです。年に一度の松本が、楽しみになり、以来 何度か広島県から日帰りでサイトウ・キネンを聴きに訪れましたが、その度、コンサート前に和菓子屋さんで、栗まん、栗羊かんを買うのが楽しみでもありました。  
私も年を重ね、去年夏に仕事をリタイヤ。今までは日帰りであわただしくコンサート終了後は、駅に急いでいましたが、去年の公演は初めて松本に泊まり、のんびりした時を過ごしました。「これからは時間を気にせず松本に行かれるぞ・・」と思った矢先のコロナ騒動。栗まんのお店も閉店し、もう栗まんも買えなくなりましたが、またいつの日か、松本でサイトウ・キネンを聴き新しいお土産を開拓する事を楽しみにしています。

ファビオとSKOの心通った演奏に胸打たれた夏

Yuri

私にとって2017年のルイージ指揮、マーラー「交響曲第9番」(オーケストラ・コンサート Aプログラム)は深く胸に刻まれる感動的な公演だった。 ルイージの指揮は情熱的だが丁寧で美しくもあるイメージ。この日の公演もマーラーの作り出した音を一つ一つオーケストラ・メンバーと心を通わせながら紡いでいく。客席からでもその熱量は十分に伝わって来る。特に第4楽章のアダージョには驚いた。

CD音源を聴く限りでは(一般的にも言われているが)中身が乏しいイメージがあったのだが、実演では弦楽器セクションが大きな音の渦を作り出し、真っ暗な大海原を静かに、荘厳に通り過ぎていく。そんなイメージが頭に思い浮かんだ。最後の音が消える時、この曲を通じて「音楽の美しさ」を思い知らされた。曲の余韻で静まり返る会場の中、ルイージはまずオーケストラ・メンバーに深く一礼をしたのも印象的で、この指揮者、オーケストラだから作り出せた公演だったのだろうと思う。心が清らかになれた気もした。
私は東京在住で普段はビル群の中で生活していて、山に囲まれ自然を感じられるこの松本で音楽を聴くことにもまた価値があると思っている。また素晴らしい体験を松本で出来る日を心待ちにしています。

「深い紺色」の思い出

匿名希望

1993年の夏、オペラ「火刑台上のジャンヌ・ダルク」のために初来日した舞台美術家のオーグスト・パバネルは、アシスタントたちよりも一足先に松本に到着し、会場となる長野県松本文化会館(キッセイ文化ホール)を視察しました。その時に彼に付き添ったのが私だったのですが、彼はフランス語しか話せず、英語もほとんど理解出来なかったので、身振り手振りと笑顔でのコミュニケーションで丸一日を二人だけで過ごすことになりました。

せっかく日本に来たので、何かにつけて日本酒が飲みたいとおっしゃったので、ホール近くの居酒屋チェーン店に遅いランチに入り、誰も居ない店内で熱燗を飲み始めたのだと思います。そこで彼が「今日のお礼にあなたを描いてあげる」と言い出したので、軽いスケッチ程度のものだろうと思ったのですが、何と彼はそこから延々と3時間ほどかけて肖像画をパステルで描いてくれたのでした。描く前に「どの色の紙で描いて欲しい?」と聞かれ、たくさんある色の中から、なぜか私は濃紺を選んだのでした。後から思うと、何故そんな描きにくい色を選んでしまったのか分からないのですが、結果、私の分身が深い紺色の中からひょっこり現れ、その憂いを秘めた表情には圧倒されました。
それ以来、その肖像画は我が家の家宝として大切に保管されています。その日の晩には彼の希望によりやっぱり日本酒を飲みに和食屋さんに出かけました。当然そんなに会話が成り立っていたとは思えないのですが、楽しい酔いの席では言葉はあまり関係なかったようです。

サイトウ・キネンの思い出

大久保富美江

2020年コロナ禍でOMFが中止になり寂しい夏となった。代わりにキッセイ文化会館で1992年フェスティバルの開幕を飾った「エディプス王」のフィルムコンサートが開催された。オペラ映像を見ながら、SKFが開幕してからの事が走馬灯のように思い出された。第1回、初めて見たオペラ「エディプス王」は舞台装置の凄さと、会場に響く男声合唱と、ジェシー・ノーマンの歌唱力に圧倒され、オペラの醍醐味に魅せられた。また、オーケストラ・コンサート。ブラームス「交響曲第1番」は小澤さんのタクトが振られた瞬間から終わるまで、素晴らしい演奏に引き込まれ、演奏が終わった後も感動で涙が止まらなかったことを思い出す。それ以来SKF/OMFの大ファンになった。

当時私は40代で仕事と子育てに奮闘中であった。毎年SKFの演奏やオペラを聞けることが一年間頑張った自分への「ご褒美」だった。また会場や楽屋担当のボランティアとして28年間、誇りをもって楽しんで参加させていただいた。毎年、一期一会の出来事があり、たくさんの感動や満足感を感じることができた。その経験が翌年への原動力になり人生が豊かになった。  
また、2000年に松本市総合体育館で「1000人の合唱」(サイトウ・キネン・オーケストラと1000人の合唱)、ヴェルディ「アイーダ」で「小澤さんの指揮&SKOとの共演」が叶い、まさに「夢と感動のステージ」を経験することができた。2002年にはオーディションを受けてベートーヴェンの「交響曲第9番」をオーケストラ・コンサートで「合唱」を歌えたことは歓びであり、私の「宝物」となった。  
子供たちは「子どものための音楽会」で世界一流の音色に触れることができた。また娘は学生時代にボランティアとして私と一緒に参加し、充実した時間を共有することができた。夫はチケットを入手するためにテントに泊まり込んで並んでくれた。まさに我が家の歴史はSKFとともにあった。いまだに家族が集まったときはSKFの楽しい思い出に花が咲く。  
小澤征爾さんが松本に音楽の種をまき、その芽を大きく開花させ、世界に誇る音楽文化を醸成してくださった。小澤さんの情熱と実行力に心から感謝している。

ボランティアの喜び

長岡春奈

「袋は一つでいいよ。ありがとう。毎年、素晴らしい演奏を聞くことができて最高だし、みなさんの笑顔が見られることもうれしいんだよね。今年は2泊して、松本城と城下町を見学するので楽しみだよ。」
お客さまが、グッズショップでレジをしていた私に、声掛けくださった言葉だ。

私はOMFのボランティアをやっている。松本市民として、何かお役立ちできることはないだろうかと考え、『私は音楽が好きだから「楽都 松本市」になら貢献できるかもしれない』とSKF時代にボランティア申請をした。そして、今では、私の大切な夏イベントになっている。思い起こせば、初めてのボランティアはオーケストラコンサートだった。私のシフトはグッズショップでの接客。お客さまに商品説明をしたり、レジにご案内したりするお仕事。グッズショップは大盛況。開演時間が近づいてもたくさんのお客さまが買い物を楽しまれていた。そんな中、お客さまからお問い合わせ。 「TシャツのLサイズが欲しいの。ここに無いのよ。」 棚を見ると確かに無い。私は、 「お客さま、しばらくお待ちくださいませ。倉庫を確認してまいります。」とお伝えして倉庫へ。しかし、Lサイズをお持ちするまでに数分かかってしまった。「遅いじゃないの。始まっちゃうわよ。早く清算して。」と叱られてしまった。『お客さまにご迷惑をお掛けしてしまったわ』とおトイレに行って泣いて反省。倉庫には様々なグッツがあり、Tシャツがどこにあるのかわからなかったことが原因。事前の倉庫確認を怠った自分が悪いのだ。
その後、この失敗を糧とし、レジ、ワインサービス、プログラム販売、ドア、もぎりなどのお仕事の経験を積み、自信を持ってボランティアに携われるようになった。  
OMFはたくさんのお客さまが楽しみにしているイベントであり、市外、県外、海外からもお客さまが松本市にお越しになる。また、教育プログラム(子供のための音楽会)として招待される県下の中学生も大切なお客さまと言える。私は、素晴らしい演奏に満足されるお客さまに、更に、予期せぬ満足を与えることができるのがボランティアの丁寧なお仕事・接客であり、明るい笑顔だと考えている。

残念ながら今年は中止になってしまったが、来年2021年は松本市が中核市に移行する年。そして、SKF/OMFは30年目の節目。臥雲新実行委員長のもと、素晴らしいOMFになればと期待している。そして、私もボランティアの一人として喜びを持ってお役立ちできるよう務める決意である。

「空気が変わる」瞬間を体験して

おやじ

サイトウ・キネン・オーケストラの演奏を初めて聞いたのは2013年(「サイトウ・キネン・フェスティバル松本Gig」)のことでした。 曲目は、大西順子さんのジャズプログラムにプロコフィエフのロミオとジュリエットの組曲、そして小澤征爾さんが指揮をされたガーシュインのラプソディー・イン・ブルーでした。 指揮を少ししていた私にとって小澤さんは憧れの存在。昔から小澤征爾さんの師である齋藤先生の本を片手に、小澤さんとサイトウ・キネンの皆様の映像をみて、小澤さんの指揮を勝手に研究していました。 そんな憧れの存在の小澤さんの指揮が見られるということで、私の気分は舞い上がっていました。

コンサートが始まりました。コンサート前半ではジャズに当時関心はあまりなかったのですが、大西トリオの奏でるジャズに圧倒され、その音楽に酔いしれることができました。後半、サイトウ・キネン・オーケストラの登場です。オーケストラのどこをとっても素晴らしく、ロミオとジュリエットではただただオーケストラのうまさに驚いていました。 そして小澤さんの登場です。小澤さんが舞台袖から出てきた瞬間を目に捉えることは、座っていた座席の関係でできませんでしたが、小澤さんの放つオーラというのでしょうか。小澤さんが出てきたということが目に見えなくてもわかるようでした。周りの空気が変わるのです。ピンと張り詰めた緊張感。演奏が始まりました。オーケストラの音色の変化に驚きました。小澤さんの情熱が憑依したかのような音に。その中に大西トリオの皆様との掛け合いがあり、これ以上のラプソディー・イン・ブルーは聞けないだろうなと思いました。
それからは毎年欠かさず松本に行くようにしています。小澤さんのタクトを振る時の独特のピンとした緊張感と、そこから発せられるサイトウ・キネン・オーケストラの音色は唯一無二です。 来年またコロナが収束し、聴けるようになることを心から願っています。

「パレード」がくれた宝物

ずん

小学校から中学校にかけてパレードに参加していました。毎年真夏の暑い中汗だくになり、慣れない行進をしながら演奏したのを覚えています。私がドラムメジャーを務めた年は、雨で外でのパレードが中止になり総合体育館での立奏だったのですが、緊張のあまり最後の最後で笛を吹くタイミングを見失ってしまい演奏が一度止まってしまいました。

とにかくちゃんと終わらせなければと思い、ドラム隊に「(ごめん、もう一回…!)」と合図をだし、やり直してもらったのを今でも覚えています(笑)。みんなしっかり私の合図を見てくれて無事笛と共にパフォーマンスを終えることができ、とても感謝でした。
小澤征爾マエストロの指揮で演奏できたことや、恒例となっていたお誕生日のお祝いも、とても大切な思い出(宝物)です。小さい頃からのこうした経験が糧となり、今でも楽器を続けています。SKF/OMFはこれからも松本にとって必要不可欠な文化です!

「歓迎パレード」のはじまり

小林孝行

平成3年、私は長野市から松本市立女鳥羽中学校に転任し、吹奏楽部の顧問を仰せつかりました。当時松本市の中学校吹奏楽部は、どこも決して上手とは言えない状態でした。そんな中、あの小澤征爾さんが幻のオーケストラ「サイトウ・キネン・オーケストラ」を日本に持ってくるという話が伝わってきました。しかもその候補地が長野か奈良に絞られていると。折しも松本に、県で3番目となる県民文化会館ができるという話が進んでおり、両者が見事に合致して翌年平成4年に「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」が実現したのです。

開催にあたり、(松本市の)国際音楽祭推進室から小中学生による歓迎パレードをやりたいというお話が来ました。市内の小中学校吹奏楽部顧問が集まっての初めての会合。小学校からは、参加が難しいとの回答。中学校は、何とかほとんどが参加の意思を示してくれましたが、パレードの経験もなければ、歩くための楽器もないという状態でした。小学校の参加がないということで、パレード用の楽器は小学校からお借りすることになり、さらに高校、大学、一般の団体が加わって、総勢22団体、1300人で第1回目の歓迎パレードが行われました。駅前からスタートして松本城まで。中学生はじめ、全ての人たちが全く初めての経験です。しかも松本城では、パレードを終えた演奏者800人による合同演奏が企画されていました。曲はエルガー作曲「威風堂々」。そう簡単に演奏できる曲ではありません。しかも指揮は「世界のオザワ」。実はこの企画をなんとか成功させたいと、小澤さんは私の勤める女鳥羽中学校吹奏楽部を指揮しに、急遽訪れて下さったのです。まだまだへたくそな生徒達相手に、本当に一生懸命指導して下さる姿は、小澤さんの「プロもアマも関係ない。音楽はみんな一緒だ」という姿勢がひしひしと伝わってきました。翌年からは小学校もたくさん参加してくれるようになり、一気に2000人規模の一大行事へとなっていきました。
2年目の合同演奏は小澤さんの都合が合わず、2000人相手の指揮を私が務めさせて頂きました。しかし小澤さんは、やはり振ってくれました。オーケストラコンサート最終日、コンサート終了後に中学生達を集め、文化会館外で「星条旗よ永遠なれ」と「信濃の国」を振ってくれたのです。以後、この2曲が定番となり、この歓迎パレードは「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」と共に毎年の年中行事として松本に根付いていきました。そして、それとともに松本市の吹奏楽のレベルは飛躍的に高まっていったのです。

人が創り出すステージのあたたかさに魅了され

匿名希望

1999年の夏、人生で初めて松本に行った。その理由は、幼なじみが夏休みにフェスティバルでアルバイトをしていたから。何のバイトかというと、オペラの小道具の仕事。「観に来ない? 俺出てるし」、という軽い誘いに乗って(「出てる」と言ってもオペラの助演は歌わない演技だけの役割でスタッフが兼ねることも多い)。
当時乗っていたバイクで、中央道をツーリング気分で松本へ向かった。  

スマートフォンもない時代、事前に地図を調べて行ったが、結局は松本インターで降りてからその友人に電話して、「で、松本のどこに行ったらいいんだっけ?」と聞くような気楽な旅路で、「松本文化会館。国体通りをまっすぐのぼって、左にスポーツ橋ってのがあるから、そこで待ってるよ」と、今思えば、何とものどかな待ち合わせだったと思う。無事に落ち合い楽屋口に行くと、喫煙場で談笑する黒い服の人たち。今思えばSKOメンバーもいたはずだ。とにかく黒い服ばかり、というのが印象に残っている。  
本番は立ち観だった。席で観られるのかと思っていたけれど(今思えば甘い)、その友人の父親がオペラの技術監督で、客席後ろで立って観るから、一緒に入ろう、と同行させてもらった。少し面食らったけれど、観させてもらえる期待の方が優っていた。実は公演そのものよりも、終演後にバックステージを見たことが圧倒的に印象に残っている。舞台裏で乾杯する出演者たちがいる傍らで、公演最終日だったのか、セットを猛烈な勢いで片付ける裏方さんたち。その両方のノイズ、渾然一体感、その中で悠然と立ち回る友人の父。「どうだった、楽しめたか?良かったらまたおいで」くらいの当たり障りのない会話をしたような気がするが、たしか握手をしたこと(大仰に握手するなんて新鮮だった)、その場の雰囲気に魅了された。華やかさ、雑然さ、多様さ。人間的な手触り。それが自分にとって、初めて垣間見たオペラの舞台裏であった。  
「またおいで」の言葉通りに戻ってきて早21年、今でもフェスティバルに仕事で携わっている。仕事を始めてほんの駆け出しの頃に関わった「イェヌーファ」(2001年)、「ピーター・グライムズ」(2002年)、今度はその音楽と舞台に改めて圧倒され、ますますのめり込んでいった。  
今夏は残念ながら松本で過ごすことは出来なかったが、いまや松本は第二の故郷のように感じている。来年はいつもの夏が戻ってきて、それが末永く続いて欲しい、と心から思う。

「皆で音楽することの楽しさを教えてくれたフェスティバル」

K.E.Kのおじいちゃん

「ジェシー・ノーマンが松本に来る?ほんとに?」28年前、SKF第1回のプログラムを見たときの私の第一声でした。世界の、それも旬のトップ歌手が松本市に来て演奏すること自体、当時の松本のコンサート事情からしてあり得ませんでした。そして、きら星のごとくの演奏家達、夢にも思わないプログラムの数々、なにより、それを実現してくれる小澤さんのお力に、ただただ感動したのを覚えております。凄いことが松本で始まるぞ!そういう興奮が、当時30台前半の私達夫婦には確かにありました。そして、それは今も続いています。フェスティバルの公式プログラムは1年たりとも欠けることなく、当家の書架の中に、毎年の思い出と共に整然と並んでいます。

我々夫婦は、合唱、歌を趣味としており、子ども達もうたうことが好きです。 1000人合唱(ふれあいオーケストラ・コンサート ーサイトウ・キネン・オーケストラと1000人の合唱ー)が始まった時、我々アマチュア合唱愛好家は、小澤さんの想いに驚喜しました!なんて素敵なこと考えて、実行してくれるんだろう!松本市民で良かったと幾度思ったことでしょう。この世界的な音楽フェスティバルの出演者の一員として、小澤さんの指揮でSKOと共演が出来るのですから。その後第9(ベートーヴェン:交響曲第9番)の時です。2人の息子(当時小学生)も一緒に家族4人が歓喜の歌を小澤さんの指揮で歌い上げたのです。我が家の歴史に残る貴重な思い出です。子ども達はその影響もあってか、その後合唱や吹奏楽に親しみ、生活の中で音楽を楽しんでいます。その後、我々夫婦は幾度となく合唱団員として(毎回のオーディションは冷や汗続きでしたが、、、)フェスティバルに参加させて頂く機会を頂戴しました。そのどれもが素晴らしい体験でしたが、やはりカーネギーホールでの戦争レクイエム(2010年)は忘れがたき思い出です。この時は末娘が児童合唱団員で親子3人でNYで夢の舞台に立ちました。かけがえのない我が家の歴史の1ページです。
小澤さんはこの時、病気からの回復中でした。指揮台に立つだけで体力を奪い痛みも走るはずなのに、指揮しているマエストロは音楽に集中し完成へと導いていきます。音楽に身を捧げている、その姿は忘れることが出来ません。
音楽に対する姿勢、皆で音楽することの楽しさ、言葉では言い尽くせないたくさんのことを小澤さん、フェスティバルに我が家は教えていただき、そして経験させていただきました。心より感謝です。
これからもずっと応援させて頂きます。 OMFよ! 永遠なれ!!

楽都「松本」への想い

たかとも

「松本」は、高校時代修学旅行で訪ねた思い出の地である。まだ訪ねたことはなかったものの、オーストリアの「ザルツブルク」に似た印象の古都であった。その松本で第1回のサイトウ・キネン・フェスティバル松本が開催されると聞き、チケット発売日に並んだ。幸いブラームスの交響曲第一番をメインプログラムとしたフェスティバルの最終日のチケットが入手でき、妻と2人で松本に向かった。思っていた通り、街全体が新しく始まった「音楽の祭典」に酔いしれているかのように、町中に祝祭ムードが満ち溢れていた。コンサートは武満徹のセレモニアルで始まった。宮田まゆみの厳粛な「笙」の音が新しい祭典を寿ぐようで心が研ぎ澄まされる。2曲目は、チャイコフスキーの弦楽セレナード。

まさに日本の「弦」と言える素晴らしい響き。休憩をはさんで、いよいよ後半はメインプログラムのブラームス。ティンパニのゆったりとしたテンポで始まったシンフォニーは、着想から完成まで21年かかったというブラームスの大作。力強い希望を感じさせるクライマックスに至って自然と感動で涙が溢れてきたことを今でもはっきりと覚えている。音楽を聴いてこんな感動を味わったのは初めてのことであった。翌年夏、音楽祭に合わせて憧れのザルツブルクを旅した際に、街全体が、「音楽祭」を祝っていると感じたが、まさに「松本」で感じたのと同じ空気であった。
その後、昨年まで毎年夏に「楽都松本」を訪問することが自分のライフワークとなり、 数々のオペラ、コンサートを聴いてきた。その中でも今でも心に残っているのは、バッハのマタイ受難曲とロ短調ミサである。バッハの崇高な精神性を知ることができたのもサイトウ・キネンがきっかけだった。コロナ禍により今年のフェスティバルは残念ながら中止となったが、こんな時こそ改めてバッハを聴くことで、心の安寧を保ちたいと思って当時のプログラムを眺めている。
私にとってサイトウ・キネンは欠かすことのできない大切な夏の風物詩であり、大好きな松本で音楽だけでなく、草間彌生さんの芸術に触れたり、街歩きしたりと人生に潤いを与えてくれる大切なイベントである。
町中がこの素晴らしい音楽の祭典を心から祝い、楽しむあの日が一日も早く戻ってくることを心から願っている。

音楽とともに世界に飛び立って・・

片瀬文江

平成4年、SKFが松本で開催された年、私は、長女の付き添いで、松本市の信大病院小児病棟のベッド脇で生活していました。ある日、主治医の先生が「すごいよ。SKFのチケットがとれたよ」と興奮ぎみに話してくれました。その時私たち親子は外の世界が、松本市が、何故沸いているのか、知る由もありませんでした。その年の9月、長女は急性骨髄性白血病で、15才で旅立ちました。家族皆が悲しみの中で生活していた時に、次女の音楽の先生が、「歌こそ天性のものだから絶対続けて。いい声してるから」と、勇気づけてくれました。

その言葉が嬉しくて心の拠り所にしていた時、SKFのオペラに出演した児童合唱団を母体に発足したSK松本ジュニア合唱団の夏のコンサートの記事を見ました。あれ、SKFって、先生の言ってたのだと心が動き、練習を見学に行き即入団しました。子供たちの美しく澄んだ歌声に、悲しみから救われる思いでした。そして次女は、幸運にもSKF児童合唱団に参加でき、武満徹のメモリアルコンサートの舞台に立つことができました。「小さな空」「まるさんかくしかく」の子供達の透き通るような歌声に、ただ感激して涙が流れました。高校生になり、千人合唱(ふれあいオーケストラ・コンサート ーサイトウ・キネン・オーケストラと1000人の合唱ー)やハーレム少年合唱団とのジョイントコンサート(ふれあいコンサート3、2001年)で、貴重な体験をさせていただきました。この時は、親の係として送迎・連絡・おやつ・衣裳・食事やハーレムの子供達へのお土産など、本番まで松本に通い、厳しい練習から、素晴らしいステージが完成されていくのを目の当たりに感じ、見守りました。そのあともSKFの舞台に立つ機会を頂き、戦争レクイエムでカーネギーホールまで行った時は長女の分まで世界に飛び立ったようでした。
平成25年、オペラ「子どもと魔法」で、SKF松本合唱団に参加。グラミー賞を受賞しました。壁紙や木の精になり、そして大きなふくろうの羽を広げ鳴き声と共に舞台を横切りました。カーテンコール。鳴りやまぬ拍手の中で、ふくろうになった娘は、前列で幾度も頭を下げていました。松本で開催されているSKFならではの体験でした。親の私は毎年チケット入手のため、奔走し最高の世界のフェスを満喫しております。音楽を通して、娘は大きな経験を得、たくさんの人のお陰で成長し、今、二人の子供の親となりました。明るい歌声の中で育つ孫たちが、次の世界に元気に羽ばたくことがこれからの楽しみです。

念願のOMFで体験したSKOの奏でる響きに感動

河野正晴

私はSKF/OMFは2017年の一度しか聞いていません。しかし私にとって、サイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)への思いは’84年のメモリアルコンサート、’87年のヨーロッパ公演にさかのぼります。その演奏をFM放送で聴き、当時これが本当に日本のオーケストラなのかと驚きました。私は小澤さんやSKOに関する本や写真集はほとんど所有しており、放送されたドキュメント番組はすべて保存し繰り返し見ていたので、小澤さんやメンバーの方々には一方的にひとかたならぬ愛着を感じていました。

いつか松本で生のSKOを聴いてみたいと思いつつ、地元の札幌交響楽団や一足先に始まったPMFを応援してきました。今でこそ北海道~松本の直行便はありますがこちらから出かけるのは大変だったのです。’17年のプログラムは私の最愛するマーラー「交響曲第9番」であり、結婚25周年を記念してホテルはブエナビスタを予約し、長年の念願であったOMFに初めて二人で行くことができました。
まずSKOブラスアンサンブルで迫力あるすばらしい演奏を楽しみ最後にサプライズで小澤さんもステージにあがって大喜びでした。翌日の指揮者ファビオ・ルイージはPMFで十回以上聴いている最も信頼できるマエストロです。ルイージとSKOの奏でるマーラーは弦の厚みとその響き、弱音の美しさ、それぞれ管の見事なソロ、一人一人の気迫のこもった情熱ほとばしる演奏とその音楽の深さに胸が熱くなり、私の一生心に残るすばらしい体験になりました。
二十数年前の創立メンバーのほとんどが入れ替わりましたが、コンマスの矢部さんや安芸さん、久保さん、店村さんなどベテランの健在ぶりをうれしく思いました。できれば”小澤征爾指揮のサイトウ・キネン!"というのが理想ですが、楽屋口ではまたもや小澤さんをお見かけすることができました。小中学生のブラスバンドのパレードや松本城、善光寺などの観光と地元グルメも堪能し、まさに至福の4日間を過ごすことができました。