勝俣泰さん(ホルン)
弱冠25歳からサイトウ・キネン・オーケストラでホルンを演奏されている勝俣泰さん。野球に打ち込んだ少年時代、“自分はデキる”と勘違いした大学時代を経て、現在はSKOホルンセクションを支える名プレイヤーとしてご活躍されています。「最も印象的な演奏会は?」という質問に返ってきた、音楽家なら誰でも背筋が凍るエピソードとは?
その時に、"人にすごく感動してもらえる職業に就けたら幸せだな"と思ったんです。
―ホルンを始めた経緯を教えて下さい。
実は、もともと音楽にはまったく興味なくて、子どもの頃は野球ばっかりやってたんです。ひたすら野球。ずっと野球でしたね。小学3年生の時から中学まで。あらゆるポジションをやりましたが、最終的にはキャッチャーで落ち着きました。というのも、一番評価をいただけたのがキャッチャーだったんです。それはたぶん、性格だと思います。僕はそんなに前に出て行きたいタイプではなく、どちらかと言うと支えていたいタイプなんです。だから(キャッチャーという)女房役というか。
ところが、中学1年生の時に交通事故に遭ったんです。後ろから一部始終を見ていた弟曰く、自転車で道路に飛び出したところをトラックに跳ねられて、僕の身体が空を飛んで、そのままブロック塀にドーンってぶつかったらしいんです。ブロック塀がある意味クッションになってくれたようで、頭も打たなかったし、擦り傷とか打撲だけの怪我で済んだんですけど、左脚がおかしくなっちゃって。膝の打撲が結構ひどくて、「これは運動できないね」って言われました。当時、野球は地域の野球チームでプレイして、部活ではバスケットボールをやっていました。運動ばっかりやっていたところに「運動はダメ」と言われたので、「じゃあ部活なにしようかな」って考えた時に、吹奏楽部に入ることにしたんです。
僕の叔父が、プロフェッショナルの吹奏楽団体である東京佼成ウインドオーケストラに所属していたので(打楽器を担当)、叔父の演奏会を聴きに行く機会は結構あったんです。子どものころから聴きに行かせてもらってましたが、当時はまったく興味がなかったので、会場で走り回ってつまみ出されたことありますよ(笑)。まったくと言っていいほど、音楽が入ってきてなかったですね。
吹奏楽部に入って、やりたかった楽器はホルンでした。ホルンをやりたい理由も、ただのひらめきなんですよ。ピカンと。ろうそくに火が灯ったように「ホルン!」って思ったんです。写真を見て「あっ、これかな」って思ったんですよね。ピストンとかスライドとかよりも、左手にレバーあるのが面白いって思ったんじゃないのかな。正確に何を考えたのかは覚えていないんですけど、良いなと思ったのはそこだと思います。
ところが入部したのが中学1年生の夏で、すでに部活は始まっていたので、トランペットとトロンボーンしか空いていなかった。友達から「トランペットのほうがメロディー吹けるから楽しいよ」って言われて、「じゃあトランペット」っていう感じで吹き始めたのが、始まりです。
-中学1年生の夏からトランペットを始めれられて、いつからホルンを?
中学2年生のときに叔父の演奏会を聴きに行って、シューマンの「4本のホルンのためのコンチェルトシュテュック」と「展覧会の絵」を聴きました。この演奏会で、僕、死ぬほど感動したんです。「すごい!」って、めちゃくちゃ感動した。涙出ちゃうくらい感動した。その時に、"人にすごく感動してもらえる職業に就けたら幸せだな"と思ったんです。そして、「ホルンでプロになる」って思ったんですよね。でも当時はまだ、トランペット吹いてるんですよ?(笑) だけど、「俺はホルンでやっていく」って思って。それでも、中学を卒業するまではトランペット担当でした。友達に楽器を貸してもらって、遊びでホルンを吹いたりはしていましたけどね。それでホルンでプロになりたいとか思ってるので、矛盾してますよね(笑)。
高校も音楽高校に行きたいって言ったんですよ。だけどまずホルンを吹いてもいないし、どんな勉強が必要かも知らなかったので、プロになりたいんですって叔父に相談したんです。彼は音楽の世界の厳しさを知ってるから、プロで生きていくのがどれだけ大変なのか、プロになったところで経済的には困窮するかも、ということを言われ、「僕は君の幸せな生活を願うから、音楽家になることは勧めない」と親身になってアドバイスをしてくれました。でも、それで「はいそうですか」って止めるようだったら、それまでなんですよね。「ダメならダメでもいいから、やれるところまでやってみたい」と親にも言って、結局、高校は普通の高校に通い、その間に音楽を勉強することにしました。その時には叔父も全面的に協力してくれて。初めてピアノを習いに行って、ソルフェージュも習って、音楽の勉強はすべて、高校に入ってから始めました。
-ホルンの勉強はどのように?
叔父に都響の有馬純晴先生を紹介してもらって習い始めました。ポジティブに考えれば、最初から先生に習うことが出来たのは良かったですが、中学3年間に自己流でトランペットを吹いていたクセがついちゃってて、いくらホルンを吹いてもコルネットみたいな音がしましたね。発音の原理はおんなじなんですけど、やっぱり音色が違うんですよね。
初めて先生の音を聴かせてもらったときはびっくりしました。生で、間近でホルンの音を聴くのってその時が初めてで。CDとは全然違って、ホルンそのままの音が聴こえてきて、「あ、こういう音なんだ」と、大きな衝撃を受けました。とっても現実的な美しさというか。演奏会やホールで聴くよりも、ひとつの同じ部屋で、目の前で聴く音のほうが、より鮮明にイメージを掻き立てられましたね。
同級生に怒られたんですよ(笑)。「お前いい加減にしろよ」って(笑)。
1998年SKF 写真中央、管楽器セクションの後2列目左側にいらっしゃるのが勝俣さん。オーケストラコンサート ベートーヴェン:レオノーレ序曲 第3番 Op.72bでの1枚。
-高校ご卒業後、一浪された後に東京藝大に入られました。
入学式の時、学部長さんが「皆さんは全国から集った天才たちの集まりです」ということをご挨拶でおっしゃったんです。僕はね、その時に勘違いしたんですよ。「俺も天才の中のひとりなんだ!」って思っちゃった(笑)。根拠は無いのに、すごい集団の中にいる自分もすごいはずだ、と。練習しないでも吹けるとか、ハチャメチャやってるけど吹けるとか、そういったものがカッコいいという、ちょっと歪んだカッコよさに憧れていた時期だったんです。ハチャメチャであることが天才感を醸し出すというか、"奇想天外であることがアーティストの条件!"みたいな、ものすごい勘違いをしてたんです。僕はホルンの経験も浅いし、積み重ねてきた歴史が少ないから必死でやるしかなかったのに、子どもの頃からコツコツやってきて、すごい練習を積み重ねてきた人と同じように考えちゃった。自分はそうじゃないのに、天才肌の生活の上っ面だけ真似しちゃったんですよ。だから最初の半年間は酷かったですね。うん...藝大の1年の半年間は、本当に酷かったです。
-"間違っていた!"と気づいたのはどうして?
同級生に怒られたんですよ、「お前いい加減にしろよ」って(笑)。
室内楽とかやっててね、何にも練習してないから出来るわけがないんですよ、そりゃ。それでもって、合わせに行けば言い訳ばっかりするわけです。「飯食ってねーからなー」とか「今日ベルトがきついんだよな」とか、ね。本当ね、こんなこと恥ずかしくて、自分の過去から抹消したいくらいなんですけど(笑)。本当にひどかった。で、同級生にすごい怒られた。「お前いい加減にしろよ、何考えてるんだよ」って。しかもね、相手は女の子4人(笑)。女の子4人と僕とで木管五重奏をやってて、その4人に物凄いシリアスな表情で囲まれて、「あのさ、ちょっといい加減にしてほしいんだけど。あなたと一緒にこうやることが、私たちにとっては苦痛でならない」というのを、こんこんと言われたんです。同級生にですよ。
そこで死ぬほど反省しました。俺はそんな天才肌じゃなかったんだって。そこから気持ちを切り替えて、また雑草魂で頑張るようになりましたね。
今の全てはあの過程を通って活きていると思えば、今があるのもそのおかげかなという感じもします。あの時怒ってくれた同級生たちには本当に感謝してます。
-勝俣さんがSKOで初めて演奏されたのは1998年でした。当時はお幾つでしたか?
25歳ですね。大学院2年生の時だったと思います。
この前年(1997年)に、長野県の奥志賀で試験的に管楽器の勉強会が開かれることになって、そのメンバーとして当時の先生に推薦頂いたのが、SKOやフェスティバルとの出会いでした。木管八重奏が組めるメンバーを集められていて、僕は藝大でのホルンの先生(守山光三さん)から「行ってみる?」って言われて、参加させて頂いたんです。そこで、SKOメンバーの水野信行先生にお会いしました。
1週間ぐらい奥志賀に籠って、モーツァルトのセレナード ハ短調 K.388(より第3,4楽章)をやりました。その時、初めて宮本文昭さん(オーボエ)や工藤重典さん(フルート)、そしてもちろん水野先生といったスーパープレイヤーたちを目の前で見て、「うわ~」ってなりましたね。たぶんその時に水野先生から「来年から松本で」って言われたんじゃなかったかなぁ。その時は全然ピンと来てませんでした。「え?なんで僕ですか?」って感じ。だって桐朋学園とも関係ないし、ただの学生だったし。今でも水野先生に「どうしてですか?」ってお伺いしたいぐらい、びっくりしました。
-初参加されて、いかがでしたか?
忘れられないのが、最初のリハーサルの時です。毎年、リハーサルの冒頭にスタッフの方が「今年から新しく参加される〇〇さんです~」って、新しく参加した人を紹介しますよね。メンバーがワーって拍手して、「久しぶり、元気?」「よく来たね~ウェルカム、ウェルカム」ってなるやつ。僕の時は、「えーっと、ホルンの......えー、誰だっけ」ってなって(笑)。資料を見て、「えーっと、勝俣くん」って言われたんだけど、オケは「ダレ?」って感じでシーンとなって...。桐朋学園の知り合いっていうメンバーが多い中で、本当にまったく関係のない、ただの藝大の院生が入ったわけだから、「誰あれ?」って感じでみんなポカーンとしてた。そしたら宮本さんが「彼にも拍手してあげようよ!」って言って下さって、拍手を頂いた。これは忘れられない(笑)。「なんてところに来ちまったんだ」と思ったね。だから、そこからの記憶は真っ白。小澤さんが指揮台に上がられてリハーサルが始まったけど、なんにも覚えてないですね。いつ「もう帰っていいよ」って言われるんだろうっていうことを、真剣に思ってました。
-この時のプログラムは、ベートーヴェンの「レオノーレ」序曲 第3番 作品72bと、プーランクのオペラ『カルメル会修道女の対話』でしたね。
それまでバレエのオーケストラはずいぶんやらせて頂いていたんですが、オペラの経験はそんなになかったんです。プーランクの『カルメル会~』って、内容がすごい重いんです。最後は全員がギロチンにかけられて、シーンとして終わるという。
音楽がね、たまらないんですよ。突き刺さってくるみたい。それに加えて極度の緊張で、演奏中に本当に涙が出ました。雲の上みたいなレベルのオーケストラの中に、自分がウイルスみたいな存在で居ると感じて。当時の心境としてはそうでしたね(笑)。曲はすさまじく重いし、みんなギロチンかけられていくし、自分も音出しても辛いし、「僕もギロチンかけて」って言いたくなるくらい、辛くて辛くて仕方なかったというのが正直なところですね。
水野先生も一緒に吹いていたので、色んなアドバイスをいっぱい頂きました。できるだけそれに応えたい、来年とか次とか無くていいから、僕はとにかくここで完全燃焼して、燃え尽きて無くなってもいいと本当に思っていました。チューバの杉山康人さんも初参加だったんですが、杉山さんにはよく蹴っ飛ばしてもらっていたなぁ(笑)。緊張でパニックになって沈み込んでいる僕を「なにやってんだ、お前~」って、本当に脚をバーンって蹴ってくれて、それで「やっと目が覚めた」って感じで(笑)。
「すごいものを経験しちゃった」って、真夏なのに背中がゾワゾワしました。
-初めて小澤さんの指揮で演奏されたのはいつ?
山本直純さんがやっていらっしゃった「ジュニア・フィルハーモニック・オーケストラ」というのがあるんですが、僕は大学1年生の時に1年間だけ所属していたんです。その時、ジュニア・フィルの創立20周年でアメリカ演奏旅行をしたんです。ボストンからタングルウッドに行って、タングルウッドのユース・オーケストラとジュニア・フィルが合同で、小澤さんの指揮のもとでリハーサルするという企画がありました。それが最初です。
ベートーヴェンの交響曲第2番の第2楽章だけやったんですけど、この曲のホルンってちょっと難しいんですよ。音が高くて、すごくきれいなソロもあるし。その時は1番(ファースト・ホルン/*1)を吹いていたんですけど、タングルウッド・ユースの音がすばらしく美しくて、とても緊張していたんです。もちろん小澤さんもいるし。「あっ、世界の小澤征爾だ!動いてる!歩いてきた!指揮台立った!始まっちゃったよ、どうしよう!」とかって思って(笑)。自分が一番気になっている嫌なソロの部分をドキドキしながら構えて小澤さんの指揮を見ていたら、それまで違うところを見て振っていた小澤さんが、こっちをカッと見てね、棒を振り下ろされたんですよ。その瞬間にパーンと音が出ちゃったんです。"引っ張り出された!"っていう感じ。あんなに緊張していたのがバカみたいだなって思うくらい、なんでもなく出来ちゃった。「これか!」って思いました。「これが世界のトップの指揮者の力なのか。プレイヤーの能力以上のものを引き出しちゃうんだ」ってね。「すごいものを経験しちゃった」って、真夏なのに背中がゾワゾワしました。
-その経験を経てSKOで再会されて演奏されましたが、SKOでの一度目の演奏会のことで覚えていることはありますか?
本番で何をやったかっていうのは、あんまり覚えてないんですよ。本当に無我夢中。辛いから早く終わってくれっていう思いも正直ありました。まだ25歳の若造だったし、そんなに意識高い系じゃなかったと思うので(笑)、ホテルに戻ったらプーランクのことを調べるために文献に目を通したり...とか真面目なことはやってなかったの。「なんで出来ないんだ俺はー!」ってふさぎ込んでた。
-それでも、勝俣さんがフェスティバルにご参加されなかったのは2回だけです。長くSKOで演奏されていて、SKOならではのキャラクターや魅力は何だと思いますか?
ヨーロッパやアメリカ、色々なところからカラーが違うスーパープレイヤーが集まってSKOが作られますよね。だから最初に音を出すときには、ものすごく違いを持った素晴らしい人たちの集まりなんだというのが、如実にサウンドから感じられるんです。それがフェスティバルの期間中に、バターのように溶け合っていく。どんどん融合していくのを日ごとに感じるので、すごく幸せなプロセスに携わってるなって思います。常設のオーケストラに自分が入っていく時は自分が染まるっていう感じが強いですけど、色々なところから集まった人たちが作るオケでは、毎年が本当に新鮮です。もちろん知っている人もメンバーにいるので、すごい演奏をするんだってことは知識として知ってますけど、その人たちが一年間過ごしてきて得てきたものを聴けるのは、また違う経験ですよね。さぁそこで自分は何が出来るかって思うので、サイトウ・キネンという存在は僕にとってはずっと講習会なんです。最初に奥志賀に行った時の感覚。一年目の怖くて怖くて仕方のない時代から比べたらちょっとは視野が広がった気がしますけど、緊張感っていう意味ではあんまり変わらないですね。
いい歳していつまでそんなこと言ってるんだ!って感じはしますけど、でも、そうなんです。松本に行くときは「ここが自分の勉強の場であって、これでまた1年間勉強して、1年間やっていく蓄積を頂くぞ!」という意気込み。だから、今でも参加させて頂いてありがとうございますっていう、学生時代の気持ちは変わっていないですね。
20年もの夏を松本で過ごさせてもらっているので、
夏の過ごし方の他のやり方がわからなかったですね。
-忘れられない演奏会をひとつ挙げるとしたら?
2000年に、ベートーヴェンの「フィデリオ」序曲 作品72を小澤さんの指揮でやりましたが、あの楽曲は冒頭からホルン2本のきれいなソロがあって、速くなるとセカンド・ホルンのソロがあります。めちゃくちゃ難しいわけではないですが、フェスティバルの幕開けを飾る曲だったので、プレッシャーを感じていたんですよね。当時は、本番当日の朝11時からゲネプロがあって、客席にもお客さんが入って、たぶん衣装も着てやっていたと思うんです。まさに本番さながらだった。
この時はゲネプロが終わって「終わった~」と思っちゃったんですよね。「とりあえずできた、良かった」と思って、みんなで「かつ玄」に行ってロースかつかなんか食べて、「じゃあ本番まで、後ほどね~」って言って、その時泊まっていたホテルの部屋に戻ってゆっくりして。寝るつもりはなかったんですけど、いつの間にか寝ちゃったんです。つまり、目覚ましをかけずに。
18時43分くらいに電話がかかってきて、「勝俣くん、今どこ?」って。「えっ?!花月のベッドの上です......」ってなったんですよ...。初日です、初日。19時公演です。「やっちゃった......」って、茫然自失。その瞬間に部屋を飛び出しました。着てたもの持って、すぐそばに停めてあった車に飛び乗って、なんとかホールに着いたのが18時54分とか。ホールに着いたら、あの猶井正幸先生や水野先生が、僕の楽器を組み立ててたり、燕尾持って待っていてくれたり。結局、本番は7分押しで始まったと思います。完全に自分のせいです(笑)。
ただ、寝てた状態からバっと起きたので、頭の中が完全に覚醒しきってなくて、まだ半分夢の中の状態だったんです。着替えて、バーって音出しして、すぐステージだったので、長い間ドキドキしてる時間が無いままステージでバーンと吹いたので、演奏自体はスッといっちゃったんですよ。でもその代わり、周りがものすごい慌ててた。例えばクラリネットのカール・ライスターとかも動揺してて、吹くべき場所で落っこちたりとか、他の人たちが影響受けていたと、後で水野先生がおっしゃってました。僕は覚えてないんです(笑)。これが一番の失敗談でございます。
終わった後、すぐに小澤さんのところに謝りに行ったんです。それこそ切腹覚悟で行ったわけです。申し訳ございませんでしたって謝ったら、「寝られるなんてうらやましいよ!いいよいいよ、大丈夫」っておっしゃって頂いて。神様...って思いました。
2000年SKF 曰く付きの公演時。写真左側、後列から2列目にいらっしゃるのが勝俣さん。
-フェスティバルで、どの時が一番楽しいと感じられますか?
今はもうずっと楽しいです。松本に向かってる道中も楽しい。車の中でもワクワクしてるし、リハーサルが始まるときも楽しいし、顔合わせの時も、挨拶してるときも、ずっと楽しい。松本の市内にいて、お気に入りのお店に行ったりとか、街で誰かとすれ違ったりとか、お土産見たりとか、すべてのことが楽しいっていう範疇に入るんだと思います。
だから(フェスティバルが無かった)今年の夏は、どうやって過ごせばいいんだって路頭に迷った。20年もの夏を松本で過ごさせてもらっているので、夏の過ごし方の他のやり方がわからなかったですね。
市内を散策して地元の方と話したりもするし、馴染みのお店に行けばすごく仲良くして下さって、いいお話とかもいっぱい聞けるし。そこにいらっしゃる他のお客さんともたくさんお話しできたりして。松本という土地がすごく好きだし、人が好きだし、もちろんフェスティバルがあっての関わりではあるんですけど、今となってはあの街のすべてを愛してるんだなと思います。
期間中は毎朝スポーツジムに行けば必ずフィリップ(フィリップ・トーンドゥル:オーボエ)がいて先に運動していたりとか、どこにいてもみんなでいるというのが、東京ではまずありえないですよね。もちろんね、良いことばっかりじゃないですけど、寝食を共にして創り上げていくというのが、まさにそのまま、文字通りだなと思います。
-ありがとうございました。
2003年SKF 客席内で練習するホルンセクション。勝俣さんは、写真右側奥の白Tシャツ姿。
2019年OMFにて、リハーサル中に楽器談義をする勝俣さんとニール・ディーランドさん。
*1:ホルンセクションは第1、3奏者が主に高音を担当(上吹き)し、第2、4奏者が主に低音を担当(下吹き)をする。
インタビュー収録:2020年11月
聞き手:OMF広報 関歩美