Interview
インタビュー

石川滋さん(コントラバス)

アメリカ・ヨーロッパに活動拠点を置きながら、フェスティバル創設の1992年からほぼ欠かさずSKOで演奏して下さっているコントラバス奏者の石川滋さん。「音楽人生における北極星」と語る小澤総監督に対する思いや、発熱するほど打ち込んだ渾身の演奏会、慣れ親しんだ松本のオススメレストランなどお話しいただきました。

石川滋さん

「こんなオケが日本人だけでできるのか!」と、衝撃を受けたのが最初のSKO体験でした。

―石川さんは音楽家のご一家に生まれながら、大学は最初、慶応大学経済学部に進まれたんですね。そして慶応在籍中に、桐朋学園のディプロマ・コースに進まれたという、異色の経歴の持ち主です。

音楽の道に進みたいという心は、高校生の時には決まっていました。だけど自分が音楽で本当に成功するか、食べていけるようになるのかなんてわからないし、自信もなかった。だからとりあえず高校は普通の高校に行って、最終的には大学に入ってから決めようと思っていたんです。僕が当時から尊敬するヨーヨー・マやレナード・バーンスタインって、ハーバード大学に行っているのよね。そういう道もカッコいいなぁって思って。それで慶応に進みました。間違いなく視野が広がったし、いまだに応援してくれる仲間達もいっぱいいるから、行って良かったと思っています。

―フェスティバル初年の1992年からSKOで演奏されています。どのような経緯でSKOに入られたのですか?

もともと、母が桐朋学園の5期生なんです。秋山和慶さんや飯森泰次郎さんがいらっしゃる期。この母が、SKO設立の基盤となった1984年の「齋藤秀雄メモリアルコンサート」(*1)のリハーサルに、僕を連れて行ってくれたんです。大学生になったばかりの頃だったね。桐朋の、昔のオーケストラの部屋でやっていたのを覚えています。小澤さんが指揮していらっしゃって、「こんなオケが日本人だけでできるのか!」と、衝撃を受けたのが最初のSKO体験でした。
1984年は、ちょうど「藝大に行こうかな、桐朋に行こうかな」と考えていた時期なのだけど、このSKOのリハーサルを聴いて「桐朋に行きたい」って思いました。それで翌年、ソロ・ディプロマというコースで桐朋に入ったんです。このコースだとダブルスクールができるっていうのでね。桐朋に入る最大のきっかけは、このSKOのリハだったの。「こりゃすげえー!」って思いましたよ。

桐朋に入り、慶応を卒業し、その後ニューヨークのジュリアード音楽院に行きました。そのとき日米協会が主催するコンクールがあって、審査員にSKOメンバーの潮田益子さんと安芸晶子さんがいらっしゃったんです。僕はそこで賞を頂いたのだけど、このお二人が僕をSKOに推薦してくれたのが出演のきっかけでした。
僕がSKOで初めて演奏したのは1992年だったけど、正確に言うとその前のヨーロッパ・ツアー(*2)にも声をかけて頂いていたんです。残念ながら学校のスケジュールの関係で行けなくて、やっと実現したのが1992年だった。フェスティバル初年に参加できたって、すごいでしょ?(笑) コントラバスセクションのなかでも一番若かったんだよ。今では上から数えたほうが早いけど(笑)。

さっきも話した僕の母は、スズキ・メソードを創立した鈴木鎮一が叔父にあたるんです。だから(スズキ・メソードの誕生地である)松本という土地にはすごく縁が深くてね。子どものころからしょっちゅう行っている場所だったから、本当にすごいご縁だなと、今でも思うよ。

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1992年SKF オーケストラ コンサートでの1枚。指揮台に立つ小澤総監督の正面で演奏するのが石川さん。

―1992年は一段と骨のあるプログラムでしたね。

ストラヴィンスキーのオペラ『エディプス王』と、ブラームスの交響曲第1番など。全部やった記憶があるなあ。『エディプス王』で覚えているのは、オケのチームをAとBに分けたこと。今は違うけど、昔は集めたオケのメンバー全員にオペラを経験してもらいたいということで、メンバーをAチームとBチームに分けて、日を変えて順番に演奏したんですよ。たぶんこの年だけだったと思うけど。ソプラノのジェシー・ノーマンは、本当に素晴らしかった。女王様だね。憧れの先輩達がたくさんいる初めてのSKOだったし、興奮して楽しくてしょうがなかったね。

小澤さんの音楽の一部になれるというのが、僕にとっては喜びなんです。

―小澤総監督の指揮で演奏するのは、1992年が初めて?

そう、初めてだった。僕、小澤さんの指揮が大好きなの。
僕はアメリカで20年近く生活したけど、音楽の世界においてもアメリカって、やっぱりものすごい競争社会なのね。そういう中で成功している数少ない日本の方たちの存在は、自分にとって大きな励みだった。特に音楽家である僕にとっては、日本人で成功している人の頂点が小澤さんだから、音楽人生の方向を示してくれる北極星みたいな存在だったんです。遥か先を走っている人なんだけど、僕も音楽という同じ道を行きたいと思っていた。そんな人の指揮で演奏できるんだから、そりゃ嬉しかったよね。

演奏会とかで小澤さんの指揮を見て、演奏も聴いてきたけど、やっぱり聴くと弾くとは大違い。同じ音楽を、同じ場所で、同じスペースでやるっていのは、比較にならない体験だった。聴くのとは、受けるインフォメーションの量が全く違うんだよね。

小澤さんの指揮者としての特徴は、とにかくとてつもないエネルギーがそこにあり、それを身体で表現するフィジカルの強さが突出している、ということだと思う。特にフィジカルの部分が小澤さんの最大の特徴だなと思います。エネルギーを身体で表現するということにかけては、小澤さん以上の指揮者って、歴史上に居ないんじゃないかな。僕はそこが一番好き。そのフィジカルな能力で、我々は弾かされちゃうんだよ。小澤さんの音楽の一部になれるというのが、僕にとっては喜びなんです。あれは本当にすごいと思う。
その反面、小澤さんの指揮はものすごく繊細でしなやか。一方通行ではなく、オーケストラの出す音を受け入れてくれて、あたかも我々と室内楽のアンサンブルをでもしているような気になることもあります。

―1992年のあと、石川さんはボストン交響楽団(BSO*3)のオーディションを受けられたんですね。

まだジュリアードの学生だったのですが、憧れのBSOのオーディションがあるっていうので「エイッ」ていう感じで受けたんです。経験ないので、まずはテープ審査。それに通ったら一次、二次と進んで、最終審査まで残ったわけ。最終審査までいくと音楽監督の小澤さんがオーディションを聴いて下さるので、最後まで行って小澤さんの前で演奏したい、という気持ちがあってね。SKOで演奏したけど、だからといってお話ししたこともないし。経験もゼロの学生だったから、BSOに入れるとは思わなかったけれど、それでも良いところまでは行ったんだよね。
結局BSOには経験のあるアメリカ人が入って、僕はそれなりにがっかりしてニューヨークに帰ったの。そしたら志賀さん(ニューヨーク在住のSKOオーケストラ・パーソネル・マネージャー)から電話が来て、「小澤さんが話したいっておっしゃっているから、今度カーネギーホールに来てください」って言われて。俺、ビビってさぁ(笑)。なんのダメ出しだろう、と。「お前なんか受けるんじゃない」とか言われるのかなって(笑)。そしたら「良かったですよ」っていうことをおっしゃって下さったんだよね。初めて、北極星と思っている憧れの音楽家としゃべったわけです。
嬉しかったよ。これがどれだけ励みになったか。他にも演奏についてのいろんな話はしたんだけど、開口一番そう言ってくれた。要するに「良かったから頑張んなさい」っていうことを伝えてくれようとしたんだと思う。まだ若い奏者をわざわざ呼んで、そんなこと言ってくれるなんて嬉しかったなあ。

小澤さんは自分の遥か先を走っているランナーだけど、自分も音楽という同じ道を走っているっていう意識はあった。当時は大リーグにも、日本人はほとんどいなくてね。野茂英雄投手が来るか来ないか、っていう時代だった。小澤さんは世界の音楽界の本当のスター。励みになったよ。俺も、アメリカで辛いこともあるけど頑張ろうと思ったもん。アメリカでオーケストラやって、首席奏者になって、ソロもやりたいっていう夢があったから、なんとか踏ん張ったよね。

―石川さんが思うSKOの特色とは?

日本とアメリカとヨーロッパという、3つのスタイルが異なる演奏家が集まってひとつのものを創り上げようとするから、懐の深さがあると思う。その幅の広さは魅力だね。昔はオケで演奏していない弦楽器の奏者もたくさんいらして、「私こんな曲初めてやった!」なんていうときもあって(笑)。それはそれで面白かったなあ。

昔、ライナー・ツェペリッツさん(*4)の隣で弾かせて頂いたことがあったの。その頃、アメリカを離れてスイスのオーディション(ベルン交響楽団)を受けようとしたんだけど、ヨーロッパの楽団のオーディションって、やっぱりヨーロッパに住んでいる人じゃないとあまり呼んでもらえないみたいな話も聞いたことがあってね。特に首席のポジションだったから、レジュメ(履歴書)を出せばオーディションに呼んでくれるかと言うと、それはわからなかった。それで、ツェペリッツさんにお願いして、推薦状を書いてもらったの。快く引き受けて頂いたんだけど、この推薦状が、ヨーロッパにいない僕がオーディションに呼ばれる大きな要素になったと後から聞いて。SKOは、普段は会えない人と会える場所でもあると思う。特に僕はアメリカ生活が長かったから、ヨーロッパ系の人たちと一緒に演奏できる貴重な場所でもありますね。

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2002年SKF オーケストラ コンサートAプログラム。写真右側でコントラバスを弾いているのが、ライナー・ツェペリッツさん。その奥が石川さん。

休憩時間にも練習するために部屋を取って、ご飯も食べずにさらった思い出があるな。

―子どもの頃から松本に親しんでいらっしゃる石川さんですが、おススメのお店などがあれば教えて下さい。

松本については詳しいよ(笑)。ひとつは「そば処ものぐさ」っていう居酒屋さん。昔、SKOメンバーの大先輩の物まねをみんなの前でしていたら、ふすまを開けたらその先輩ご本人がお一人で飲んでいたっていうエピソードがある店(笑)。
あとは、女鳥羽川沿いにあるシチリア料理のお店「クッチーナマサノリ」。感じも良くて、本当においしい。ご夫婦でやっていらっしゃるお店でね。マサノリはシェフのお名前。
それと、「ポンヌフ」っていうフレンチ。カウンターだけのお店で、僕が子どもの頃から通ってる。松本はおいしい店が集まる密度からしたら、東京以上だと思うね。

―今までで一番印象に残っている公演は?

2009年の「武満徹メモリアルコンサートXIV」で、作曲家の原田敬子さんの作品を演奏(*5)したんだけど、これがすっごく難しくてね。コントラバス、クラリネット、パーカッションの三重奏なんだけど、本当に難しいの。もはや、できないの(笑)。弾けないし、合わないし、みんな真っ青で。公演の数日前に原田さんもいらしていろいろアドバイスを下さるんだけど、ますますできなくなる(笑)。だけど必死で頑張って、本番だけはうまくいったの。小澤さんも原田さんも客席にいらっしゃってね。終わった後、舞台袖で大の字になって倒れたよ(笑)。

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2009年SKF 武満徹メモリアルコンサートXIVでの1枚。作曲された原田敬子さんとリハーサル中のショット。

でもなんといっても強烈な記憶なのが、ブリテンの戦争レクイエム。SKOでは初めてソロを弾かせてもらった作品だったんです。戦争レクイエムって、大編成オーケストラの中央に、小編成のチェンバーオーケストラが並ぶのね。各パートから一人ずつが入るのだけど、小澤さんの目の前だし、特にコントラバスって背の高いスツールに座るから、小澤さんとちょうど目の高さが合うの...。すごいのよ、あのプレッシャーたるや。個人的には、この公演が一番記憶に深く残っています。

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2009年SKF  ブリテン:戦争レクイエム。中央に立つ小澤総監督の斜め左で、コントラバスを弾いているのが石川さん。約250名がオーケストラ&合唱で演奏した壮大なステージだった。

―チェンバーオケのメンバーに選ばれた時の感想は?

最初はそこまでたいへんなことだとは思わなかったの、演奏したことのない曲でもあったし。もちろん甘く見ていたわけではないけど、リハーサルが終わって「これはやばい」って思った(笑)。半端な作品ではないということもすぐにわかった。休憩時間にも練習するために部屋を取って、ご飯も食べずにさらった思い出があるな。また小澤さんのフィジカルなパワーが至近距離でくるからさ、頭真っ白になるけど、必死で食らいついていった。本当に良い経験をさせてもらいました。

戦争レクイエムは、2009年に松本で演奏して、その翌年、ニューヨークのカーネギーホールでも演奏したよね。小澤さんがご病気から復活しての公演だった。もうね、強烈。カーネギーの時は出し尽くしたって感じで、最終日の翌日にスイスへの帰りの飛行機で高熱を出して、帰ってから仕事を一週間休んだ(笑)。でもこれは、僕だけじゃないんだよね。あの時はみんなが出し尽くしていたと思う。

実はね、僕この公演の録音CD聴いてないの、一回も。松本のもカーネギーのも、封が開けられないの。聴いたらまた熱が出そうでね(笑)。

―ありがとうございました。

*1:小澤総監督の恩師である齋藤秀雄先生没後10年を記念して開催されたコンサート。小澤総監督の呼びかけにより、齋藤先生に学んだ生徒約100名が国内外から集まり、一夜限りのオーケストラが編成された。このオーケストラが、後のサイトウ・キネン・オーケストラの土台となった。
*2:SKOは1987年から数度の海外ツアーを実施。1991年には「ヨーロッパ・アメリカツアー」と題し、ロンドン、デュッセルドルフ、アムステルダム、ニューヨークで公演を行った。
*3:小澤総監督が1973年から2002年まで音楽監督を務めたアメリカの由緒ある楽団。
*4:1997年~2007年までの11年間、毎年SKOで演奏を続けて下さった、元ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席奏者。
*5:2009年8月22日(土) 武満徹メモリアルコンサートXIV
原田敬子:消失点II-b
コントラバス:石川滋、クラリネット:亀井良信、パーカッション:安江佐和子

インタビュー収録:2020年8月
聞き手:OMF広報 関歩美