猶井正幸さん(ホルン)
サイトウ・キネン・オーケストラ メンバーインタビュー、トップバッターを務めてくださったのは、1984年に開催された「齋藤秀雄メモリアルコンサート」にもご出演された、ホルンの猶井正幸さん。桐朋学園に在籍の学生時代から、フェスティバル創立当時の思い出まで、とても楽しくお話し下さいました。
齋藤先生は
「もっともっと! 足りない足りない!」って言ってましたね
―本日はありがとうございます。まずはじめに、サイトウ・キネン・オーケストラが始まった当初のことについてお伺いしたいです。
初期の頃の写真を持ってきました。小澤さんも写っていますよ。
1990年 3回目のヨーロッパ・ツアー。ザルツブルクでの1枚。(提供:猶井正幸さん)
左から)木村淳さん、猶井さん、澤田清春さん、水野信行さん、小澤総監督、大野総一郎さん
―猶井さんカッコいいじゃないですか!
あれ、今はダメ?(笑)
―失礼しました(笑)
これはね、1990年のヨーロッパ・ツアーで、ザルツブルクに行ったときの写真だと思います。
僕が初めてSKOに参加したのは、1984年のメモリアルコンサート。次が1987年(1回目のヨーロッパ・ツアー)。そして次が1990年と1991年。その後、1992年に松本でフェスティバルが始まりましたね。(*1)
―1984年の齋藤秀雄メモリアルコンサートは、齋藤先生の門下生約100名が集まって結成されたオーケストラでした。猶井さんは、齋藤先生に教わったことがあったのですか?
僕が齋藤先生から個人レッスンを受けたのは、実は一回だけでした。今でも桐朋にある『室内楽の夕べ』っていう演奏会のオーディションに挑むために、齋藤先生のレッスンを受けたんです。それが一回きり。大学3年か4年生の時でしたね。
でも、オーケストラでの授業は受けていたんですよ。毎週金曜日に、オーケストラのリハーサルみたいな形での授業があってね。場所は、校舎の4階の突き当りにある403教室(現在は402教室)。その隣にトウサイ(齋藤先生のあだ名)の部屋があって、部屋の扉を開けるとタバコの煙がブワァ~!って出てきてた。
先生が言っていた中で一番覚えているのは「音楽の方向性を大事にしろ」ということ。先生はすごいガラガラ声だったんだけど、ものすごい迫力で歌いながら教えるの。すごい情熱ですよ、あれは。熱気がヴァーッて伝わってくる。そのテンションを見ると「うわー、どうしよう」ってなってた(笑)。自分たちでやるリハーサルだともっとサラサラってやっちゃうんだけど、先生は「もっともっと!足りない足りない!」って言ってましたね。ホルンにはね、「音を外さなきゃいいんだよ」ってよく言ってたな(笑)。僕らもそれを受けて「ハイ、わかりました」ってね(笑)。それも難しいんだけどね。
―メモリアルコンサートご出演にあたって、覚えていることはありますか?
何しろ印象に残っているのは、小澤さんの気合がすごい入っていたってこと。「ココが勝負!」って感じの気迫でね。僕らも驚くぐらいの感じでした。
もちろん最初は、小澤さんが部屋に入ってくると懐かしい友人たちとワーって挨拶したりするんだけど、棒を持った瞬間、バッと変わったのを覚えています。そして、「こんな音がするのか、すごいな」って驚いた。(前述の)403の狭い部屋で練習していたんだけど、部屋がぶっ壊れそうな音がして。しかもオーケストラに入っているのが、名だたるソリストや、有名な演奏家ばかり。そんな中で音を出すことになって、とにかく慄いていた(笑)。自分の存在は何なのか、自分の役割は何なのかって、考えましたね。とにかく強烈な印象が残っています。
東京と大阪で演奏会をしましたけど、お客さんも奏者も、みんな感動していました。「こういうの、もう一回できるのかなぁ」って、思っていましたね。もしかしたら、小澤さんはその時から、このオケを続けたいって思っていたのかもしれない。
―この時、初めて小澤総監督の指揮で演奏したのですか?
そうです。演奏もそうだし、ナマで小澤さん見るのも初めてでした。それが一番楽しみで(笑)。小澤さんの生の姿が見えて、生の声が聴こえるっていうのにワクワクしてました。桐朋での学生時代は被ってないので。
―小澤総監督の指揮で初めて演奏されて、いかがでしたか?
もう、むっちゃくちゃ忙しかったのを覚えています。感情と視線が落ち着かないというか(笑)。感動に浸ってる場合じゃないし。でもね、初めて小澤さんの声を聞いたときは、夢のようでしたよ。もちろん、テレビやラジオでは聞いていたけど、生はね。桐朋生としては、ほんとに憧れの、大スターですから。
―そんなオケで、1987年にヨーロッパ・ツアーに行かれました。印象的なエピソードはありますか?
覚えているのは、初日の練習にどうしても都合がつかなくて参加できなかったこと。当時所属していたドイツのオーケストラの定期演奏会が入っていたんです。齋藤先生の門下生だったらわかると思いますが、1日でも練習に出ないのはご法度って感じだったんですよね。恐る恐る事情を説明したら、1日だけだったら大丈夫と言ってもらえて「ありがとうございます!!」って感じ。
あと、とにかく美味しいものを食べた記憶がありますね。緊張を紛らわすために、演奏以外のことに集中しようと(笑)。SKOばっかりに集中しすぎてしまうと、自分が押しつぶされそうになるんです。加えて、僕の真後ろには千葉馨さんっていう(怖い)先生が座っていた。もう、周りがみんな怖い人だらけで「生きて帰れるのかな?」みたいな気持ち(笑)。
こんな幸せなことがあっていいのかって、未だに思いますよ。
―その後、1992年に松本を拠点として、サイトウ・キネン・フェスティバル松本が始まりました。フェスティバル開催を聞いたとき、どう感じましたか?
これで毎年、みんなと音が出せるんだって思いました。期待と不安と。僕の場合は、いつも不安がつきまとう(笑)。こんな幸せなことがあっていいのかって、未だに思いますよ。幸せをもらってばっかりいるって感じます。小澤さんがみんなに幸せを振りまいてくれる。小澤さん自身は、そういうものを齋藤先生にもらったって言いますけど。でもそれって、とっても大事ですよね。そういう気持ちをみんなが感じて、大事にしようって思ってきたんじゃないかな。それはとても大きなこと。だから、ありがとうって感じています。フェスティバルになったことで、毎年色々な経験をさせて頂きました。
何しろSKOは、声が掛からなかったら入れないんですよ。僕は毎年「危ないな、来年は無理かな」と思っています。他の人もそうだと思います。そういう緊張感と「あ、やっぱりこれだ」っていうありがたさがあります。そういうものがないと、普通のオーケストラになっちゃうなぁ、と。
1992年はオペラ『エディプス王』もやって、オーケストラ公演ではブラームスの交響曲第1番もやりましたね。最近、インターネットが見られるテレビでこの時のブラームスの公演映像を見たんです。すごいと思った、あの時の気迫。『エディプス王』もすごい装置を作っていましたよね。舞台に水を張って。岡谷市にあるカノラホールっていうところで、CD用に音源を録音したのも覚えています。
1992年SKFオーケストラ コンサート ブラームス:交響曲第1番 ハ短調 作品68。前から4列目、右から2人目が猶井さん
―小澤総監督の指揮について、教えてください。
僕は、小澤総監督の指揮はこの世で唯一だと思います。小澤さんはたぶん、演奏家だと思うんですよ。音は出してないけど。オーケストラをすごく尊重していて、オケをしっかり聴きながら、自分の方に持っていける人。そして、音楽に自分を捧げる気持ちがとても高い人なんだと思います。こんな人、他にいないって思うぐらい。
多くの場合、偉い指揮者って「ここだ!」「あれだ!」って色々言うんだけど、小澤さんは絶対に難しいことを言わない。すごくシンプルに、簡単なことを言うんだけど、それがすごく難しい。だけど、体の動きを見ていると、彼が持っていきたい方向が見えるんですよね。
例えばカルテットだと、ヴァイオリンの人が弾き終わって、次にチェロに音を渡すとき、終わりのフレーズぐらいから、チェロに向かって腕が自然に流れて行きますよね。そういう行動って、自分が弾いている実感がないと取れないと思うんです。それができる小澤さんって、類の無い指揮者だなと思います。演奏家の個性を尊重して、抑制しない。「当然こうだよね」っていうのが小澤さんの手にかかると、演奏家としては何のストレスも無く演奏できる。自発的な音が出せる。ストレスがあるとしたら、自分の技量。大きく音楽をつかむ上での不安感っていうのは、全然ないです。小澤さんが見ているビジョンが伝わってくるから。
指揮者の役割が本当によく見える指揮者だなと思います。役割が見えるって、すごいですよ。オケと指揮者がお互いに反応し合えるレベルって、そんなに無いんです。小澤さんの指揮だと「到達点はココだ」というのが良くわかるので、みんなそこに集中する。小澤さんはいつも、目指す音に向かってディレクションしてくれます。そういうことをSKOですごく教わりましたね。それはきっと、齋藤先生が小澤さんに伝えて、小澤さんがみんなに伝えてきたこと。そして今は、若手音楽家育成のための、小澤征爾音楽塾もある。僕は塾でも教えていますが、結局ルーツはそこ。こんな素晴らしい世界は無いと思いますよ。
―最後の質問です。強く印象に残っているフェスティバルでの演奏は何ですか?
2001年のマーラーの交響曲第9番(*2)と、やっぱり、1992年のブラームスの交響曲第1番。ブラームスの1番は、本当にすごいと思います。演奏しながら、ものすごく緊張したのを覚えています。床がね、すごいんですよ。弦楽器の音が、床から響いてくるんです。それがすごく威圧的に聞こえてね。最初は、「うわぁ、こんなとこでやるのか」って思ったんですが、やってるうちに、僕らも抑制しなくていいんだっていう印象になってきたんです。抑制しないで、出したい音を躊躇なく出す。それしかない、と。録音を聴いても、お客さんとの真剣勝負っていうのが伝わってきます。斬るか、斬られるか、みたいな。そういう緊迫感があった。その演奏会が終わった後の解放感と言ったら(笑)。みんなでバカ騒ぎしたのを覚えています。ホテルの廊下で夜通しどんちゃん騒ぎ。廊下だよ?(笑)。あとで苦情が来たらしいんですが、ホテルの支配人が良い人で、騒がせてくれました。
2001年は、演奏旅行でアメリカにも行きましたね。小澤さんのマーラーって、本当にすごいんですよ。エモーショナルというか。素晴らしかったね。この時は、ラデク・バボラークが横で吹いていたんだけど、「コイツうまい!!」って思ってね(笑)。彼の横で吹けるのはもう二度とない、これが最後だろうと思っていました。あんな経験は普通はやらせてもらえないですよね。本当にありがたいです。
あともう一つ印象に残っている公演は、1993年のふれあいコンサート(当時はSKO管楽アンサンブルという名称の公演)。世界的なオーボエ奏者のローター・コッホさんが、R.シュトラウスとドヴォルザークの管楽セレナードに乗る予定だったんですが、体調を崩されて急遽キャンセルになってしまったんです。でもキャンセルが決まったのが当日の本番直前。とはいえ本番に穴は空けられないから、小澤さんが「みんな集まれー!」って大号令をかけ、シェーンベルクの「浄夜」とモーツァルトの「ディヴェルティメントK.136」をやったんです。いきなり決まったもんだから、メンバーもその時着ていた服のままでね。小澤さんは、そういう即決・即断・即実行ができる人ですね。
―ありがとうございました。
1993年SKF サイトウ・キネン・オーケストラ 管楽アンサンブルでの1枚。小澤さんは、フェスティバルのポロシャツ姿で指揮。プログラム前半は、秋山和慶さん指揮により、H.トマジ:典礼的ファンファーレ、C.グノー:小交響曲 変ロ長調が演奏された。
*1:1987年「第1回ヨーロッパ・ツアー」 ウィーン、ロンドン、ベルリン、パリ、フランクフルトで公演。
1989年「第2回ヨーロッパ・ツアー」 ウィーン、フランクフルト、ミュンヘン、ベルリン、ブリュッセルで公演。
1990年「第3回ヨーロッパ・ツアー」 ザルツブルク(ザルツブルク音楽祭)、キール、ハンブルク(シュレスヴィヒ・ホルシュタイン音楽祭)、ロンドン(プロムス)、エディンバラ(エディンバラ音楽祭)、ベルリン(野外コンサート)で公演。主に音楽祭を回ったツアーだった。
1991年:「ヨーロッパ・アメリカツアー」 ロンドン、デュッセルドルフ、アムステルダム、ニューヨークで公演。
*2:サイトウ・キネン・フェスティバル松本 冬の特別公演を、2000年12月31日~2001年1月4日にかけて、松本と東京の2都市で開催した。
インタビュー収録:2020年7月
聞き手:OMF広報 関歩美