Hideo Saito
齋藤秀雄その音楽家としての歩み

英文学の泰斗として、いまもなお輝かしい足跡をとどめている秀三郎を父として、齋藤秀雄は、1902年5月23日、東京は築地明石町に生を享けた。兄弟は8人いたが、音楽を専門にしたのは、彼ひとりであった。彼にしても、みずから述べているように音楽家になろうとしてその道の勉強を始めたわけではなく、好きだから習わせてもらっていたのが、意外な展開をみせたにすぎない。中学時代、マンドリンに関心をもち、グループに入って楽しんでいるうち、名のあるマンドリン・オーケストラで指揮をする機会に恵まれるなど、指揮者齋藤秀雄の片鱗を示す場合もあったという。

本格的に20歳ごろからチェロの勉強が始められたわけだが、16歳のころ、宮内省雅楽部の楽人、多元長について、彼はこの楽器の手ほどきを受けている。暁星中学(彼は小学校の時から暁星っ子であった)のころ、彼はすでにドイツに留学して音楽を修める決心をしていたので、上智大学に進学してドイツ語を学ぶなど、自分の目標をもち、それをめざして積極的にみずから準備を積み重ねる習性は、10代のころから彼の身についていた。したがって上智大学は彼にとっては腰かけにしかすぎなかった。1922年同大学を中途退学した齋藤秀雄は、近衛秀麿に随伴して渡独、約半年をベルリンですごしたあと、近衛と別れてライプチヒに移り、そこの王立音楽学校に入学、クレンゲル教授に師事することになった。

学校で週に2回、自宅で1回という忙しいレッスンを通じて、人間味にあふれた、きびしくもあたたかい指導が施されたという。あるとき、バッハの無伴奏組曲第6番のレッスンを受けることになった。齋藤秀雄は、クレンゲル校訂の楽譜で練習し、それを携えて教室に赴いた。ところがクレンゲル教授は、「この曲の指使いは私が指示したのよりも、カザルスの方がずっといい。私は彼が演奏したとき、最前列で検討しながらきいていたが、ほとほと感心させられた。」と述べて、自分の指使いを消してカザルスのを書きこんでくれた。そのときのことを回想して、齋藤は次のように書いている。「私は先生のこの己を空しくする態度に感じいってしまった。(『フィルハーモニー』1929年3月号)――そして、自分の信条をもちながら、よりよいものを求めて、あえてそれを修整する姿勢は、教育の場における齋藤秀雄の後半生の生き方の中にも、いつしか移し植えられていたのであった。

ライプチヒ王立音楽学校での修行を終えて1927年に帰国した彼は、近衛秀麿を中心に、その前年に結成された新交響楽団に首席チェロ奏者として迎えられ、実地にオーケストラ活動を通じて、音楽をみつめていくことになった。しかしなお、音楽そのものについても演奏のあり方についても納得のいかないことが多くありすぎた。そこで彼はオーケストラに籍をおいたまま改めてドイツ留学の旅にでる。ベルリン高等音楽院で、幸いにも彼は、チェリストとしては当時神格的存在であったフォイアマンについて学ぶことができた。日本人で、しかもあまりうまくない彼を、入学の便宜を図ってくれたばかりでなく、自分の生徒として、熱心に教えてくれた。できないものに対しても、つねに手抜きせず、いろいろとくふうをしながら、力いっぱい教える――齋藤秀雄は後年、自分がいま、できない生徒を熱心に教えるのは、恩師フォイアマンの影響だとしみじみと述懐している。フォイアマンのレッスンでは、安易に実用版を使って練習していた彼に対して、原典版を用いて、楽譜を読むところから勉強をはじめるように、と指導されたということだ。このことも、後年の彼の音楽家としての人生に、はかり知れないほどの影響をもたらしている。

2年間の留学のあと大きな収穫をもって帰国した彼は、1932年(昭和7年)、新交響楽団の首席チェリストの位置に復帰し、ふたたびオーケストラ・マンとして、指導的な立場で音楽活動を活発にくりひろげることになる。その後、新交響楽団では、指導者近衛秀麿や支配人原善一郎に対する楽員の反感が高まり、ついに指揮者なしの演奏会を開催するなど、いわゆる大改組がなされ(1935年)、いったん契約を解除した放送局(現在の日本放送協会)も、新しい意気込みにもえる楽員たちの手による新交響楽団と改めて契約がなりたった。指揮者の人材を欠きながら、それから約1年、プリングスハイム、山田耕筰、ポラック、モギレフスキー、コメッリ、貴志康一、ヘルベルト、レブナーらとならんで、齋藤秀雄も、2回にわたって、新響定期公演の指揮をとっている。1935年12月の第162回定期と1936年6月の第168回定期がそれで、彼の幅広いレパートリーを思わせるプログラムをとりあげている。

その年の9月から、ヨーゼフ・ローゼンシュトックが、常任指揮者として、新交響楽団にまみえることになった。その前年来日したフォイアマンは、ローゼンシュトックについて、「あんな大家がとても日本に来ることはあるまい」といいながらも、言葉をきわめて賞讃していたので、新交響楽団としても、その招請に全力を尽くしたのであった。そしてついにそれが実現した。このすぐれた指揮者の来日は、齋藤秀雄の音楽人生に、またひとつの重要な意味をもたらすことになる。指揮という仕事について直接間接に、どれだけ多くのことを学びとることができたか、それは筆舌につくしがたいものがあった、とは彼自身の言、彼は当時のローゼンシュトックについて、さまざまの思いを胸に秘めながらなつかしい思い出を語っている。「当時の新響は技術の不足に加えて、練習の際には初見で演奏していたような訳で、事毎に無能ぶりを発揮したので、先生はたちまち神経衰弱気味になられてしまった。そこで、スキーや旅行などにお供して、いくぶんでも気分を軽くしてさしあげるよう努力する一方、オーケストラの方は先生のご意見にしたがって、規則を正しく、予備練習も行い、弓使いなどはあらかじめ練習の始まる前に決めるようにするなど、どうしたら先生の要求についていかれるか、ということに専念した」。(『フィルハーモニー』1951年6月号)という状態、いまの常識では考えられないほど初歩的な段階で、55年余り前の日本のオーケストラは低迷していたわけであろう。

齋藤秀雄の回想はつづく。「そうしている間に、先生によって非常に多くのことが啓発され、音符の解釈、音楽の表現などに対する疑問、未知の点がすべて明確に回答を与えられた。であるから、先生が日本にもっておられる生徒は、指揮者はいうに及ばず、作曲、ピアノ、声楽等々、非常に多方面にわたっており、現在日本における音楽家は、ほとんど全部先生が作りあげられたといっても過言ではあるまい。...われわれは先生についていくことが、音楽の正道をいくことだと信じていたので、何の不安もなく先生に従っていくことができたので、こういう指導者をもつことは、まことに幸いといわなければならない。(同上)」――音楽家としての資性の点では、かなり異質のものをもちながら、その後の齋藤秀雄の、指揮者としての生き方、教師としてのあり方の上に、このローゼンシュトックによって示された厳然たる姿勢が、いかに大きくいかに多くの影を投じていることか、上の回想とくらべあわせてみると、思い当たることが少なくない。

桐朋学園オーケストラを育てていくなかで、練習開始の時間厳守(それはただ時間に集まっていればいいというのではなく、オーケストラが練習を始めるというのはどういうことなのか、そのためには個々のメンバーは何をすればよいのか、を考えさせたかったのだ)を徹底的に教えこんでいた。初期の新響で経験し、ローゼンシュトックによって思い知らされた基本であった。またメンバーのひとりひとりに、パート譜を配布して、その曲の最初の練習のときには、各自がおのれのパートを完全にクリヤーしてくることを求めたのも、まず自分の持分を完璧にして臨む(たとえそれが初見の場合であっても)という合奏の基本について、生徒に考えさせたかったのであろう。

日本におけるオーケストラ運動の初期から成長期にかけて、齋藤秀雄は、つねにその中核的存在として、重要な役割を果してきていた。この時期、独奏もしたし、室内楽もやっていたし、また指揮者としても少しずつ頭をもたげてきていた。そしてそういった活動を通じて、またそのかたわら、同僚や後輩の指導にも力を注いでいた。チェロでは、井上頼豊、橘常定のように、いまでは長老と目されたり、すでに鬼籍に入ったりした人たちも、彼の指導を受けていた。指揮の分野でも、世界で初めて、そのテクニックのメソードを理論づけしながら、後進を育てていた。

1941年(昭和16年)、新交響楽団を退団してからは、しばらく指揮活動の時期に入る。オーケストラ運動で彼なりに立派な仕事を果たしたあと、指揮者として、本格的に楽壇に登場することになったわけで、松竹交響楽団を皮切りに、いくつかの職業オーケストラの専任指揮者を歴任するが、それぞれごく短期間のものでしかなかった。第2次大戦中からその直後という時期も悪かったが、40歳そこそこの日本人指揮者のくせに、「いたずらにきびしい一方の(あるオーケストラ・メンバーの表現)齋藤秀雄に対しては、楽員の反発の度合いも大きかったらしい。一部の心酔者の支持も大勢には影響なく、オーケストラをよくしていこうという彼の熱意が強ければ強いほど、それは空しく自分にはね返ってくるばかりであった。しかし、その実力は高く評価されており、客演指揮者としては、死の年にいたるまで各オーケストラにとって重要な人材であった。

そのころ、彼の個人的な指導を受けていたフルーティストの森正(指揮の面でも彼の生徒兼助手であった)、ヴァイオリニストの巌本真理らと、充実した室内楽の確立をめざして、ゲートルを巻いた戦時中の服装で、細々と活動を続けていた。戦争が終った1946年、彼らは東京室内楽協会を組織し、ひとしきり室内楽運動をくりひろげることになる。齋藤秀雄を中心に、巌本真理、渡辺暁雄、河野俊達、橘常定、森正らを常連として、定期的に開催されていた三越室内楽鑑賞会は、戦後心身ともに疲れ切って茫然自失の状態にあった日本の音楽家たちに、また日本の聴衆に、音楽の大切さを改めて痛感させ、どれほど力強く生きる勇気を与えたか、はかり知れないものがあった。この仕事ひとつをとってみても、それだけで齋藤秀雄の存在価値が立証できるほど、それはすばらしい内容をもっていた。

偶然のきっかけから、私はこの三越室内楽鑑賞会の仕事を手伝うことになったが、そのころ齋藤秀雄は、日本の音楽を本格的にレヴェル・アップするために、教育のあり方を根本的に考え直さなければならぬことに気がついていた。専門学校(新制では短大、大学)の年齢になって、はじめて正式に専門教育が施されていた在来の音楽教育では、もっとも大切な音楽に対する基礎的な技術、感性、姿勢のいずれもが、中途半端なままで終ってしまい、ごくわずかな例外を除いては、何も身につかないことになってしまう。音楽の勉強を始めたときから、正しく楽譜を読むことを教え、演奏の基礎の重要なポイントをたたきこんでおかなければ、プロの音楽家としては大成できるものではない、というのが、音楽家としての長い経験が彼にもたらした持論となっていた。私もそれに共鳴した。

三越の演奏会のことで、種々打合せをする機会も多かったが、打合せが事務的に終ったあとは、この音楽の早期教育についての議論に花を咲かせるのがつねであった。ピアノの井口基成と協調したいが、という彼の意見には私も全面的に賛成であった。声楽の伊藤武雄はどうだろうといいだしたのは私の方であった。一点一劃をゆるがせにしないで、楽譜を読み、正しく深く音を聴きとる訓練をしなければ、音楽家になるには、基本能力に不足しているというべきであろう、というのも齋藤秀雄の「音楽教室」構想の土台となる考え方であった。残念なことに、私は病いをえて、しばらく郷里に帰ることになり、三越の仕事を木村重雄に、音楽教室の仕事を遠山一行に托したまま、東京を離れてしまい、意義深いふたつの仕事とのかかわりを失った。

結局1948年(昭和23年)、市ヶ谷の家政学院の校舎を借りて、「子供のための音楽教室」が発足する。創立の中心人物は、齋藤秀雄、井口基成、伊藤武雄、吉田秀和の4氏であった。当時の日本の楽壇を代表するこれらの人材が、親しくみずから手をとって、子供たちを教えていたわけで、いたいけな生徒たちは、自然ななりゆきのうちに、いつしか音楽にとって何が大切なのかを汲みとるようになっていった。音楽家が必要とする最低条件をすべての生徒に体得させるのだ、というのが齋藤秀雄の考え方であった。教育で教えられることにはおのずから限界がある。ただ専門の音楽家になるためには最低何が必要か――そのレヴェルのことまでは、教育によって教え込むことができる。その力をもとに、あとは各人のもって生まれた素質、努力、細部への注意力などによって、本人がどうのびていくかの問題でしかない。だから教育の場では、音楽家としての最低条件を、忠実にひとりひとりの生徒に注ぎこむことに、全力を尽くすべきだという信念は、齋藤秀雄のうちに、ゆるぎなく居すわっていた。

その成果は、予想よりもはるかに早く、現実として示されたかにみえる。ジャーナリズムは、これを「早期天才(英才)教育」と呼んで、ほめるにしろけなすにしろ、にぎやかにはやしたてた。しかし早期教育であるにちがいないが、前述のように、それは最低条件教育でこそあれ、決して天才教育でもなければ英才教育でもなかった。技術偏重との手きびしい批判もきかれたが、その多くはためにする批判であった。

ところが、ひとつ難題にぶつかることになる。音楽教育(中学の年齢まで)で基礎をしっかり身につけさせておけば、あとは既存の教育機関にすべてを委ねても大丈夫であろう、という当初の考え方が、当時の音楽教育の状態から考えて、いささか甘かったことを、音楽教室卒業生を出す段階で、思い知らされることになったわけである。自分たちで次の段階、つまり音楽高校を作らなければならないことを、現実の問題として悟らされたのである。家政学院はつねに好意的であったが、高校までひきうけわけにはいかないという状態、音楽家たちは、何の資力ももっていないわけで、どうしても受けいれてくれる高等学校を探しださなければならない。いくつかの高校で断られたあげく、最後に残された唯一の可能性、調布市仙川にある桐朋女子高等学校にターゲットは絞られていった。音楽家を育てる以上、女子だけでは意味がない、男女共学にしなければ、というこちら側の条件は、女の花園として存在していた桐朋女子高校の教職員やPTAの面々から、痛烈な反撃を呼ぶ恰好の材料となったし、制服を採用しないという音楽科の方針に対して、同じキャンパス、同じ年齢の本来の在校生に対して悪影響を及ぼすということも、強力な反対の理由となっていた。しかし、音楽家たちの熱意は、それを支持してくれる人びとの層(この方々の努力はみのがせない)をしだいに拡げていき、ついに1952年、桐朋女子高等学校音楽科(男女共学)の開設をみたわけである。

男の生徒が映画館の窓口で、学割の入場券を買うべく身分証明書を出したところ、女子校に男生徒がいるはずがない、と突っ返されたという笑い話のような現実が、初期には頻繁に起こって、男の子たちを滅入らせていたのも面白くかつなつかしい思い出となっている。音楽教室も桐朋学園に移ってきたし、多くの指揮者を育てた指揮教室も、しばらくはこの仙川の地で続けられていた。高校3年間があっという間に過ぎていく。

高校音楽科の卒業生をどうするか――ここでも、音楽大学ならすでにいくつも存在しているわけだから、そちらにまかせていいのではないか――当初はそういう考え方もかなり強かった。しかし、生徒や父兄はそれを肯んじなかった。納得できるわけがなかった。昭和30年、桐朋学園短期大学が設立されることになった。音楽教室以来、弦楽科の主任をつとめ、またオーケストラの育成に打ち込んできた齋藤秀雄は、新設短大の教授となり、弦楽科及び指揮科の主任の役につきながら、鋭意桐朋学園オーケストラの充実をはかるのであった。その後学長井口基成の外遊の際、1958年から同60年まで、短大学長として、教育全般にわたる指導に当っていた。1961年4年制の桐朋学園大学音楽部(学長井口基成)が発足して、より幅広い教育の可能性をみいだすことになった。

指揮やチェロの後進へのレッスンにおける齋藤秀雄の熱意とその気迫は、まさにすさまじいものがあった。いやピアノやヴァイオリンの生徒に対しても、彼はつねに音楽とは何か、演奏とは何か、の本質に食いいるような指導を、労をいとわずやってのけていた。ファイアマンやローゼンシュトックらの彼の恩師たちが、彼の前でやってみせた「教えること」の大切さを、彼はそのままひきつぎ、さらに日本の実状にあうよう拡充して、生徒たちに接していた。一方オーケストラの充実に対しても、まったく限度というものを設けない熱心さで、その実現につとめていた。オーケストラ・マンとして、何を考えなければならないか、それを徹底的にのみこませるよう、きびしい指導が齋藤秀雄の手でなされていた。自分のパートは寸分のすきもないよう、つねに手のうちに入れておくという心得に背くことは、絶対に許されなかった。レヴェルに応じてわけられたいくつかの桐朋学園オーケストラの全体を、つねに彼はにらんいた。そのアンサンブルのみごとさは、まさに天下一品、作られたものとはいえ、一糸乱れぬ緻密さと生気にみちたヴァイタリティをそれはみせてくれていた。そのオーケストラにかける齋藤秀雄の熱意は、想像を絶して強いものであった。

晩年病気がちになってから、彼は自分がいなくなったあとの桐朋学園オーケストラの行方に、大きな危惧を感じていた。どうすればいいのか、その心配に彼はいてもたってもいられなかった。重病の身を運んで、夏の合宿にあえてみずから参加したときの心境いかがなものだったのだろうか。練習にたちあいながら、たまりかねてみずから指揮棒をとり、モーツァルトのディヴェルティメント(K.136)を振ったときの気迫、私はこのときの合宿だけは参加できなかったのだが、その鬼気迫る気迫のすばらしさは、居ならぶ人びと(奏者も含めて)の涙を誘う名演を生んだという。それからひと月もたたずに齋藤秀雄は、人びとに痛惜されながら、世を去ってしまった。音楽とはこういうものなんだ、と身をもって示したその最後の演奏を、果して何人の人が自分のものとなしえたのであろうか。ここでも教えることには限度がある、あとは本人次第という齋藤哲学が証明されることであろう。そして教えうることには限度があることを知りながら、いや知っているが故に、教育の後半生のすべてをかけた彼の偉大さがある。いい教育の場となりうるとみた場合、要請に応じて、相愛学園をはじめとして、いくつかの大学にかかわったのも、その彼の信念のなすわざであった。

齋藤秀雄が世を去って31年、日本の楽壇で活躍する人材の多くが、また世界に大きくはばたく人材の多くが、彼の薫陶を受けて育った人たちであることを思えば、彼の教育者としての存在の重みを改めて知らされるにちがいない。しかし、彼の全人生をふりかえってみるとき、オーケストラ・メンバーの時代、室内楽運動の時代、それらにまたがって指揮者の時代(ちょっぴりソリストの時代)、そして教育中心の時代――という風に大別できるにしても、彼が一貫して追い求めていたものは、音楽の真実であり人生の真実であったということができよう。それがあったからこそ彼は教育者として人(生徒)を強く動かすことができた。彼亡きあと、私たちが心すべきことは、彼の精神、彼の心が、いつまでも私たちの音楽のいとなみの中に、力強く生き続けることができるよう、彼と同じように、音楽と人生の真実を誠実に探求し、みきわめていくべく本気で努めることであろう。その彼の人生は、どのひとこまをとってみても、私たちに音楽するよろこびを、音楽に生きる勇気を与えてくれるものであった。

彼の薫陶を受けて巣立ちした鳳雛は、その後世界各国でさらに研鑽を積み、いまも国の内外で「一流の人」として活躍しているものが少なくない。彼らひとりひとりの音楽体験はかなり異なった道をたどっており、当然、まったく異質の個性を身につけているが、齋藤秀雄から受けとった「何か」は、いささかもゆるぎをみせていない。それをお互いに感じとり、強力な音頭とりがあったとしても、期せずして一堂に会して演奏を生みだした齋藤記念オーケストラ――そこには無言のうちに通じあうその「何か」があった。それが、他にまったく類例をみない齋藤記念オーケストラのアンサンブルの特性をもたらし、世界各地の聴衆を瞠目させたのであった。その「何か」にしがみついている二流の人も多いが、その「何か」を頼りがいのあるふみ台として、そこから自分を見出し、そこから抜けだしたものが「一流の人」として、世界に雄飛しているわけであろう。

寺西春雄
1920年(大正9年)3月20日生まれ。1944年に慶応大学経済学部を卒業、すでに大学在学中から音楽評論を手がけるようになる。フェリス女学院音楽科専任講師を数年間務めた後、桐朋学園音楽科の創設とともに桐朋の発展に尽力、1961年には教授に就任し、以後30年以上の長きにわたって音楽史などを教えた。1993年に名誉教授となる。その間にも執筆活動を盛んに行い、またさまざまな音楽団体の要職も務めた。2003年6月22日死去、享年83歳。